2015年9月20日日曜日

藤原敏江ストーリー 私の50年(?)笑 

あと10日で、50歳・・・ 
気持ちは、30歳・・・ですが、体力は、どうでしょうね?(笑)

7月に上野会長様からのご紹介で、ジャパンクラブに入会させていただきました。
入会の際に、クラブにお送りした 『藤原敏江ストーリー』が、8月号、9月号で、
会報に載りました。 

50歳の誕生日を前に、自分を振り返るチャンスをいただけたことに感謝したいと思います。


せっかくなので、こちらでも・・・(笑)




ピクニックでは、フィットネスダンスのご指導もさせていただきました。楽しかったです。






以下が、藤原敏江ストーリー 
(長い・・・ まあ、50年生きてるわけなので、仕方ないですね LOL)

読みずらいと思いますので、原稿をしたにコピーします。




藤原敏江ストーリー
思い起こすこと、45年前。 家庭は裕福ではありませんでしたが、子供のころ、クラッシックバレエを7年間習わせてもらえたことで、体育能力を築くことができたのでしょうか。中学校に入ってからは、器械体操、陸上の選手として、週末は競技会に飛び回わり、中学卒業の時に、東京都知事から、体育優良生徒の表彰を受けました。

目標に向かって、チャレンジすることの楽しみを覚えたのも、この頃だったと思います。

その時私が抱いていた将来の夢は、『競技会に出るために、私を育ててくれた、体育の先生のように、私もなりたい!』というもの。 純粋な気持ちで、『目標に向かって、いろんなことにチャレンジをしていきたい』と、子供心に思っていました。

中学校の最後の夏、高校への進路を決めるための三者面談での話。 家庭の事情もあり、高校卒業後は、すぐ、社会に出て働いて欲しいというのが、私の両親の希望。 『将来は大学へ進みたい、そして先生になりたい、、、』という思いを口にだせず、仕方ない・・・と涙をこらえました。 そしてその時、担任の先生が薦めてくれたアドバイスが、簿記や情報処理、経営学などを学べ、卒業後の就職に即役立つ、商業高校に進むことでした。 『商業高校に行くのでは、体育の先生には、なれない』 人生で初めての挫折感を味わいました。

自分の進みたい進路が選べなかったことは、子供心にとても、悲しかったことを覚えています。 

ただ、3年の月日が過ぎた高校卒業の時は、そんな悲しい気持ちは、いずこへ。 3年間は、バスケットボールクラブに明け暮れ、チームワークやフレンドシップを学び、楽しい思い出の3年間になりました。その高校で学び、身につけることができた実践力、日本の社会人として持つべき常識や礼儀などがどれほど、その後の実際の社会で役立ったか。 その後の私の人生にどれだけ大きな影響をあたえたか。 

そんなことを考えるだけで、すべては、理由があって起こるものだ・・・ということを、本当に実感します。

OLとして働き始めたのが、高校を卒業した後の、18歳。
とてもすばらしい会社でした。 週休2日制、お給料も良く、商業高校で習ったことが、そのまま実践で使えました。

ただ、自分に与えられた仕事のほとんどが、午前中で終わってしまうくらいの内容だったこともあり、毎日のお茶くみや簡単な財務処理だけでは、何か物足りず、自分の毎日の時間を無駄にしているという気持ちが、どんどん強くなっていったのです。 会社に行っていれば、お給料がもらえるわけですから、それで、よし・・・とすれば良かったのでしょうが、 どうもその辺が、ストレスにつながって行ったのです。

自分のお給料を稼げるようになったことで、家族を助けながらも、自分のためにも使えるお金も増え、すこしずつ貯めて行くこともできるようになり、昔からのパッションだった、ジャズダンスのクラスを受講したり、そのころアメリカから日本に伝わった、『エアロビクス』に出会うチャンスにも恵まれました。

そんな時に行われた、第一回の『全日本エアロビクス大会』で、上位に入賞。 OLで入賞できたのだから、もしかしたら、自分もインストラクターになって、フィットネスの業界で活躍できるかもしれない。。。 そんな思いで、インストラクターになるための養成コースに申し込み、会社のあとは、即、勉強と実践でのトレーニングに明け暮れました。 『自分の夢を持つ・・・』 叶うかわからないけれど、自分の足で、夢に向かって進む・・・そんなはじめての経験でした。

そして、OL生活も2年が過ぎようとしたころ、住友不動産フィットネス(株)が、アメリカで大ブームになっていた総合スポーツクラブ経営の『ノーチラスクラブ』の権利を得て、日本へのフランチャイズを展開することが決定、インストラクター募集のオーデションが行われることに。 

『インストラクターになるチャンス!』 
そしてラッキーなことにそのオーデションをパスした私は、ノーチラスクラブのインストラクターとしてのポジションをゲット、スタッフ第一期生として、転職することが決まりました。

スポーツクラブオープンまでの3ヶ月間は、お給料をもらっての研修。 ノーチラスアカデミーに通わせてもらい、エアロビクス指導だけではなく、マシーンコーチとして働くためのトレーナースキルも勉強させてもらえました。 アメリカから派遣されたアメリカ人インストラクターのもと、最新のアメリカンフィットネスを、習うことができたのです。英語ができたら、いろんなことを直接、もっと、もっと習えるのに・・・ 3ヶ月の研修期間で、心のどこかに、そんな思いがよぎっていました。

1986年、スポーツクラブのオープン。東京の青山という土地柄、そしてアメリカからの『ノーチラス』という名前で、東京に住むアメリカ人たちが、わんさか、メンバーとして入会、『ここはどこ アメリカ?』と思うくらい、マシーンジムには、日本人が一人もいないこともありました。 そして、英語をもっと、もっと、話せるようになったら、いろんな方とコミュニケーションを取れるはず。。。 そんな意欲がどんどんわき、そこから、毎日の英語の勉強が始まりました。

スラングの女王(笑)と呼ばれるくらい、日常の生きた英語をアメリカ人メンバーの方たちから習えました。

それから、3年間。 『いつか、本場のアメリカに渡って、最新のフィットネスの勉強をしたい・・・』 これが、次の夢と目標。 お給料の安いインストラクター業からのお金を、毎月、こつこつ貯めて、アメリカに渡る自分を毎日夢見ていました。 

ノーチラスクラブでの仕事を通して、収入以外に、信頼をベースにした人脈やコネクションがたくさん出来、私のエアロビクスのクラスの生徒さんも増え、なんと、私のアメリカ留学の個人プランは、そんなアメリカ人の生徒さんやメンバーさんが力を合わせて、実現させてくださいました。  そして、24歳の誕生日、単独でサンフランシスコに、フィットネス留学(自分でなづけました(笑))に来たのです。

渡米できるまでの準備期間中、アメリカからのエアロビクスチャンピオンたちが、大会のために来日したときに、勇気をだして、かたことの英語で連絡先をもらったことも、その後のサンフランシスコ生活を大きく変えたと思います。

貯めることのできた滞在費は、6ヶ月間のみ。 その6ヶ月間で、英語をマスターし、最新のフィットネスを学び、日本に帰ることが、私のミッションでした。 日本語では、話さない。 通った学校での日本人クラスメイト達にも、裕福に留学しているわけではないので、日本語で話しかけないでほしいと頼んだ位。

学校が終わった後は、スポーツクラブを回り、ボランティアでエアロビクスのクラスも指導させてもらうチャンスも得られました。 日本から持ってきた、重いカセットテープとシューズを持ち、サンフランシスコ中のスポーツクラブやスタジオのディレクターに自分を売り込む、大胆なことができたのも、強い夢があったからでしょうか? 

その後、インストラクターとして登録してもらえることにつながり、サンフランシスコ中のスポーツクラブは、ほとんど無料で使わせてもらえました。 世界を飛び回る、有名インストラクターたちにも、かわいがってもらい、フィットネス業界でのコネクションがどんどん、大きくなって行ったのです。

90年、踏み台昇降のコンセプトを基本にした、ステップエクササイズがカリフォルニアで始まりました。 そのころサンフランシスコにいた私は、アメリカ人インストラクターと、一緒に学ぶチャンスを得て、日本人で初めて、アメリカで、このクラスの指導を始められたのです。

このエクササイズは、日本でも絶対受け入れられる! ブームを呼び起こす!と、直感で思いました。

そして、6ヶ月の留学を終えた後、日本へ帰った私は、このステップエクササイズ指導の第一人者として、信頼できる日本の実力派インストラクターに声をかけ、彼らとともに日本全国を回り、普及活動、そして、インストラクター養成プログラムの提供などの仕事を始めました。 日本へアメリカからのインストラクターを招聘したり、日本からのインストラクターをアメリカに勉強に連れて来てあげるような橋渡し的な仕事にもかかわれたことで、日本中にもたくさんのコネクションができました。

1992年、そんな自分の仕事で、日本とアメリカを行き来していた私が出会ったのが、MLM マーケティングで大成功している、ニュースキンビジネスでした。 すばらしいディストリビューターたちに出会いました。たくさんのメントアーから、アメリカでビジネスのトレーニングを受け、正しいビジネスのやり方や理念を習えたことも、本当に、日本とアメリカを行き来していなかったら、出来ていなかったことです。

ステップエクササイズの普及活動は、もちろん、MLM マーケティングではありませんでしたが、日本各地のリーダー格インストラクターに、きちんとしたステップエクササイズの指導方法を実践でお教えする。その方たちが、その地域のメントアーとして、地元のインストラクターたちに習ったことをお教えする。そして、そのインストラクターが生徒さんたちにクラスを通して、安全で効果的な、楽しいレッスンを提供する。全国に、『ステップエクササイズは、おもしろい!』というたくさんの生徒さんが増えました。

私は一人。一人で、日本全国の生徒さんたちに毎日、そんなステップエクササイズのクラスをお教えするのは、無理。でも、この方法で広がった、ステップエクササイズの指導方法のおかげで、会ったこともない生徒さんが、『TOSHI’S ステップ』たる、私のオリジナルステップを知っていたり。 わざわざ、東京の私のクラスにまで、来てくださったり。 そんな広がりは、不思議でしたが、利にかなっていました。 

たくさんのインストラクターに、収入を得るオポチュニティを提供でき、そのエクストラインカムを使って、その方たちが、アメリカに来て勉強するチャンスを得たり、その地域のフィットネスが活性化されて、一般の生徒さん達が喜んでくださったり。 一人でも多くの方々に喜んでいただけるための仕事をすることが、私の喜び。本当に、充実していました。

27歳、アメリカで、ニュースキンのビジネスにかかわったことで、いろんな知識を得ることができ、たくさんの学びがありました。 実践からきちんとした収入もいただけていたので、実体験を語れました。 

その後日本でのマーケティングがスタートした後は、自分がアメリカで習った、マーケティングのシステムや正しいビジネスの展開の仕方やスキル、製品のことなど、私を信頼して、私から習いたいと言ってくださった方々にお伝えしました。 そして、その方々の周りの方々も、健康になったり、きれいになったりして喜んでいただき、ディストリビューターとしての活動にもつながったのです。 そして、それぞれにきちんとした収入が入るようになりました。 

『としさん、ありがとう』といってもらえることが、ニュースキンの仕事を通しても、どんどん増えていきました。そんな『ありがとうの言葉』が、私の一番の幸せだったと思います。

『30歳でアメリカに住む!』 これが、その時の、私の次の夢と目標。 ステップエクササイズの普及活動、そして、ニュースキンのビジネスで、週末は必ず地方出張でした。若かったこともあるのでしょうが、そういう時は、睡眠が4時間でも5時間でも、平気なのですよね。 全力投球の3年間でした。

そして、3年後、『願えば叶う』 権利収入/継続収入が入るようになり、アメリカに行くことができたのです。

30歳、サンフランシスコに戻ってくることができました。


夢だったカレッジにも通うことが出来、学生として勉強も出来ました。 そのときカレッジで出会った運命のアメリカ人と結婚。 グリーンカードを得ることが出来ました。 結婚生活は、価値観の違いから長く続かなかったのですが、その後は、アメリカで仕事をすることもでき、芸は身を助ける? フィットネスインストラクターとして、サンフランシスコのベイクラブ、クランチフィットネス、バリースポーツクラブ、フィットネスウエストをはじめ、USF ジェネンティックなどでも、毎日指導の仕事をすることができ、収入が入ってきました。

30代は、サルサダンスにも出会い、ダンスカンパニーにも所属、舞台でのパフォーマンスをしたり、『サルサDe元気』たる名称で、ベイエリアのたくさんの日本人の方々にも、サルサダンスの楽しさをお伝えできたと思います。

スポーツクラブでは、私のオリジナル、サルサ・エクササイズのクラス、『サルサ・カリエンテ』には、たくさんのアメリカ人生徒さんも参加してくださるようになり、パシフィカに小さいスペースではありましたが、自分のスタジオも経営することに結びつきました。 ズンバ・エクササイズが流行る前のことです。

42歳で娘を妊娠。 舞台でのパフォーマンス、フィットネスインストラクターの仕事やダンス指導は、子育てのため少しの間お休みしましたが、子供が生まれてからも、自分のパッションは変えられず、ベイビーと一緒にできる、ストローラーエクササイズ、子供のダンス、ズンバキッズ指導で、フィットネスの仕事にも復帰しました。

現在は、50歳の誕生日を2ヵ月後に控え、また、新たなチャレンジを試みたいと思っています。

今までの50年間、周りのたくさんの方々のお世話になりました。自分の今までの感謝の気持ちと、恩返しも含めて今度は、自分の50年間の人生経験から学んだこと、体験したこと、自分にできることを活用して、一人でも多くの方のお手伝いや、お世話が出来るようなプロジェクトに多くかかわれたらと思っています。

そしてこれからも、フィットネスインストラクター、ダンサー、ネットワーカー、パーソナルケア・アドバイサーとして、自分のライフワークを続けていけること。 健康第一、いつまでも、若々しく素敵なライフを送るためのサポートを、一人でも多くの方々へご提供させていただけること。 『ありがとう』といってもらえるようなサービスの提供をしていくことを、ミッションにしながら、一期一会を大切に、進んで行きたい(生きたい)と思います。 50歳からの素敵なライフストーリーも、100歳で語れるように・・・


藤原敏江
1965年9月29日生まれ 東京出身
サンブルノ在住